おもろい人間になりたい

突然ですが、ぼくはおもろい人間になりたいです。別にお笑い芸人になりたいとかそういうわけではないんですが、おもろい人間になりたいんです。おもろい人間って、どういうこと?っていうのは自分でもよくわかりません。でもたぶん人よりもおもろい人間になりたい、という欲が高いと思います。


たとえば、これは自分でもヤバいという自覚はあるエピソードなのですが、ぼくは酔っ払ってスマホを道路に叩きつけて画面をバキバキに割ってしまったことがあります。なぜそのような行動をしたのか、それは端的に言うと、「おもろいと思ったから」です。

ぼくは手帳型のスマホケースを使っていたのですが、「手帳型のスマホ、どんなことをしても割れない説」という説をでっちあげ、ぶん投げました。最初のうちはほんとに壊れなかったのですが、4回目くらいでついに画面がわれてしまいました。それは当たり前です。壊れない訳がありません。

ここで、ぼくが問題とするのは、「壊れなかったとしたら、果たして自分はスマホを投げるのを辞めただろうか?」ということです。

この疑問の答えは、Noです。ぼくは壊れるまで投げ続けたでしょう。周りにいた友達も、壊れるまでやるんだろうな、と思っていたと言っていました。

ぼくは吉本新喜劇のような、予定調和的な笑いが好きです。(そうなることがわかってる、いつもそうなると予感させておいて、その通りになる、というもの) あの場面では、誰もが、ひいては自分を含めて、いつか壊れるんだろうと思っていたわけです。そして、その通りに壊れるから面白いのです。壊れなかった数回のスローでさえも、壊れるまでのフリとして機能してしまうというおまけつきです。

ぼくはさすがに後悔しました。「おもろいやろ」という理由のみでスマホをぶっ壊したのはヤバすぎます。まず、「手帳型のスマホ、どんなことをしても壊れない説」などといった馬鹿げた説を掲げた時点でぼくは負けていたのです。


このエピソードを他人に話すと、結構ドン引きされます。こっちはおもしろ話に昇華させることで何とか元を取ろうとしているのですが、それどころではありません。

しかも、そもそもこれっておもろいんでしょうか?普通にただのヤバい奴なんじゃないでしょうか? おもろい人間は、こんなにも代償を払わずとも笑いをとるだろう、と思います。


今日もUFOキャッチャーで湯水のごとくお金を使ってしまいました。何も取れませんでした。途中から取れる気配もなかったんですが、結構な時間やめられませんでした。これも、「おもろいと思ったから」という理由が大きかったです。普通に結構なお金を失いました。ここまでくるとこれはマジで悪癖です。


なぜここまで「おもろい人間になりたい」のか、というと、やっぱり自分に武器が欲しいからなんじゃないかな、と思います。容姿端麗であるとか、優しいとか、気が利くとか。そういうので戦うのが無理だな、と感じているからこそ、こういう欲が湧いてくるのでしょう。たとえば佐藤健ダウンタウンくらいおもろかったら、誰も敵いません。でもさすがにそんなことはありません。だから、ぼくは佐藤健におもろさだけでも勝とうと思っているわけです。いやでも、佐藤健ってバラエティとかで結構しゃべりおもろいな。。普通に完敗かもしれん。ていうか、なんでおれは佐藤健と戦うことになってんねん。あと、スマホぶっ壊してiPhone Xrに変えた金があったら整形でパッチリ二重に出来たかもしれん。でも二重にしたところで大して変わらんな。しかも結局顔かよ。悲しいな。そんなことを考える真夜中です。

トイレのこと御手洗って言うやつ

あまりに暇だったのではてなブログを始めてみました。気が向いたら思ったことを書いていこうと思います。 


初めての記事のテーマはこれです。

『トイレのこと御手洗っていうやつ』


なんで最初がこれやねん、と思われた方もいらっしゃることでしょうが、これが自分が今1番気になっていることなんです。多分長くなると思います。

まず、ぼくがこの人種に初めて出会ったときのことから書きたいと思います。

ぼくが初めてこの人種と出会ったのは、なんと東大入試のときでした。

幼少期の育ちが悪く(?)、中高は6年間男子校だったぼくは、この人種にそのときまで出会ったことはありませんでした。

それは大学入試の最初の科目、国語が始まろうとしているときでした。大学入試って、受けたことある人はわかるかもしれないですけど、試験開始時刻よりも相当余裕を持って問題が配られるじゃないですか。受験生は皆問題を見ないようにして、沈黙の時間を過ごしていました。その緊張を、一言で破り去った男がいたのです。たぶん名前順的に宮田くんとかですかね(マジで知らんけど)、突然パッと手を挙げたのです。ぼくはこのとき、宮田(仮)の一言を予想しました。どうせ「すみません、トイレ行ってもいいですか?」とかやろ、と。

すると、この宮田くん、なんと「すみません、御手洗に行ってもいいですか?」と言ったのです。いや、御手洗って!?!? ほんまにそんなこと言うやつおるんや。これが東京かぁぁぁぁとなりました。このときの衝撃は忘れられません。

この宮田くんのせいなのか知りませんが、後続の「トイレ」に行きたい受験生たち、たぶん名前順的に宮本くんとか宮沢くんとかも皆、『「御手洗」に行ってもいいですか?』と聞くのです。いや、お前ら落ち着けよ。普段からトイレのこと御手洗って言うてんのか???と、思ったことを覚えています。

ずっとモヤモヤした状態のまま国語を終え、次の数学の試験問題が配られた途端、あろうことか自分も「トイレ」に行きたくなってしまったのです。いや、これなんて言えばええねん。未だかつて「トイレ」に行った者はいません。皆、「御手洗」に行ったのですから。いやでも、おれは「御手洗」じゃなくて「トイレ」に行きたいんや。負けるな、おれ。

「すみません、トイレ行ってもいいですか?」

勇気を振り絞って、言いました。ぼくは「トイレ」に行くことができる喜びと、東京に一石を投じてやったような達成感に包まれました。

あれから2年半程が経ちますが、結構たくさんの数の『トイレのこと御手洗っていうやつ』に出会いました。あの頃よりはまだそういう人種のことも受け入れています。しかし、それでも今もなおぼくがこんなにもこの人種に違和感を覚えるのはなぜなのか、そこには結構明確な理由があります。

御手洗派の意見も至極真っ当なものです。「トイレ」って直接的に言うのがあまり品がないから、というものです。この意見はさすがに理解できます。

たしかに「トイレ」っていうのは品がないかもしれません。いやでも待って?トイレを御手洗っていうのはやっぱり無理あるくない??? ぼくはこの「御手洗」っていうのが嫌なんです。トイレ(場所としての)に行って手だけ洗って帰ってくるんですか??? そもそもなんで手を洗うかっていうと、用を足して手が汚れたからですよね?? その用を足して汚れた、という過程を無視したらあかんくない??マイナスの状態から普通の状態になっただけのことやのに、そのマイナスをなかったことにしてちょっとプラスになってもうてるやん。なに手洗ってちょっと綺麗になって帰ってきとん? と思うわけです。 しかも「手洗」だけじゃなくて「御」ってつけてなんかイカつい感じだしてくるのもなんなん?? 「御」ってなに???要ります??

「用を足して汚れてしまった手を洗い」に行ってきますって言われたら納得はできるわけです。まぁなんやこいつクセ強いな、とは思いますけどね。

もう一つ理由があります。「御手洗いってくる」って言って、10分くらい待たせる人、いますよね。待つのはほんまに全然いいんですけど。この言い方やと、手洗うのに10分もかかるん??めちゃくちゃ手ピカピカなって帰ってくるんちゃうん?となってしまうんですよね。そんなわけないのはわかってるんですけど。それなら「う〇こ行ってくるわ〜」(中高ではみんなこんなんやったと思います)って言って10分待たされた方が、待つ気持ちの準備もできるし、気持ちよく(?)待つことができそうです。

ここまで御手洗派のことを散々disってきたように見えるかもしれませんが、御手洗派の皆さんでお気を悪くされた方とかいらっしゃったらごめんなさい。別に「御手洗」って言っても全然大丈夫なんで、仲良くしてください。


PS.

先日、バイト中での出来事なんですが、突然の腹痛に見舞われ、「トイレ」に行きたくなってしまいました。そもそも言い出すのも躊躇われる中、またこの問題が頭の中に持ち上がります。「何て言えばええねん」問題です。数分間、腹痛とその葛藤との戦いを続けましたが、もう我慢の限界です。この戦いの勝者は腹痛です。

「すみません、御手洗に行ってもいいですか?」

ぼくはそう言ってしまったのです。圧倒的敗北感……!!これは未だかつて味わったことのないほどの屈辱です。言いたいことも言えないこんな世の中じゃ…poison って感じです。

結局人は世間体を気にする生き物だということです。自分を貫き通せる人間でありたかったなぁ。家に帰って泣きました。